ウズベキスタン共和国 ブハラ 2002.09.05 - 09.09

うるさい古都

ブハラはサマルカンドと共に、シルクロードの重要な拠点として栄えた所だ。またかつては宗教の町としても、全中央アジアからイスラム教徒が集まってきた。しかし多くの建物は破壊され、現在残っている遺跡は16世紀のものがほとんどだ。城壁の内部はあまりにきれいで中世のテーマパークみたいな感じだったヒヴァと比べると、人々の生活の匂いを感じることが出来るのがブハラだ。しかし物売りや飴をねだる子供があまりにも多くて、疲れる町でもある。「ミスター・マダーム、どっから来たの」と声がかかるとああまただとうんざりしてしまった。

ウズベキスタンのまずい料理

キルギス共和国で出会った旅行者は全員、キルギスの料理と比べて、いかにウズベキスタンの料理がまずいかを話していたが、実際に来てみて納得した。同じ材料を使ってもどうやったらこんなにまずく作れるのか不思議だ。油っぽくて味がないか、または塩を使い過ぎて味が分からない時が多い。唯一の例外は、ちょっと余分にお金がかかるが、泊まっている民家で家庭料理を作ってもらう時だけだ。民家で食べても、レストランで食べても、メニューは限られている。肉と野菜のスープ(ショルポ)、にんじんと羊肉のピラフ(プロフ)、中央アジア風うどん(ラグマン)、肉の串焼き(シャシリク)位しかない。ブハラで唯一まあまあ食べられるレストランでは、ラグマンしか食べられない時が多く、油がたくさんスープに浮いたラグマンを数回立て続けに食べた後は、もうラグマンを見るのもいやになってしまった。プロフもレストランで食べると、食べ終わった後にお皿に油が5ミリ位びっしりと残っている事が多い。キルギスではどこで食べてもおいしい料理が食べられたのに、ウズベキスタンではどうしてこんなにまずいの?

偶然の再会

ヒヴァを出発する時に、中国で最初に出会い、その後キルギスで再会した智里にまた偶然出会った。中国のトルファンのドミトリーで同室だった彼女から、キルギスは日本人ならビザが必要ないと教えてもらったのが、キルギスとウズベキスタンへ来るきっかけとなったのだった。智里に中国で会った時には、私達はカザフスタン経由でヨーロッパへ向かうと思っていたので、キルギスで私達を見かけた時は、彼女も驚いていた。彼女もキルギスの後は、ウズベキスタンへ向かうのでまたウズベキスタンで会うかもねと言って別れたが、まさかまた会えるとは思っていなかったので3人ともかなり驚いた。キルギスのウズベキスタン大使館で再会した時に、智里は私とはまったく違いとってもスムーズにビザがもらえていたので、つい最近ウェスともしかしてウズベキスタンで智里に会えたら、運が私達にも周って来るかもねと話していた矢先だったのだ。ヒヴァからブカラとサマルカンドへ一緒に旅をしたが、やはり智里といるとタクシーを見つけるのにもあっという間にむちゃくちゃ安い運転手を見つけたり、宿も信じられない位安くて居心地の良い所が見つかった。そして彼女と別れて先に首都のタシュケントへ向かった時から、運が離れてしまった所をみると、智里はすばらしく強運に恵まれているらしいと改めて確信したのだった。

カラーン・モスク内からは向かいの神学校であったミル・アラブ・メドレセの2つの青いドームが見える。カラーン・モスクはソ連時代は倉庫として使われていたが、独立後再びモスクとして利用されるようになった。
ミル・アラブ・メドレセの青いドーム部分。
中央アジア最古の神学校である、ウルグベク・メドレセのタイルの模様にはアラビア語の装飾もある。
元はハマム(公共浴場)であった所が現在レストランとして利用されている。ラビハウズ近くのタキ・サラファンのすぐ隣にあるのだが、入り口に看板が出ていなくて、他の旅行者にこのレストランの事を教えられて初めて気が付いたくらいだ。食事は夜しか出さないので、昼間は中を見学する事が出来る。中には小さな部屋がたくさんあり、迷路のようだった。
ウズベキスタンのまずい料理に飽き飽きしていた私達は一晩奮発して、このハマムレストランで食べることにした。一緒にいるのは、中国のトルファンのドミトリーで同室になり、偶然キルギスのビシュケクで再会した後、またヒヴァで劇的な再会をしてから一緒に旅をしている智里。彼女がトルファンで日本人はキルギスに入るのにビザがいらないと教えてくれたので、キルギスとウズベキスタンへやって来たのだった。

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