クロアチア ドブロブニク・ドルヴェニク・スプリット 2002.09.23 - 09.27

アドリア海の宝石

アドリア海沿岸の小さな町ドブロヴニクは、“アドリア海の宝石”という別称を持ちクロアチアでも一番の観光名所である。15〜16世紀にはヴェネツィアと並ぶ貿易都市として栄え、今でも旧市街にはその時の面影が残っている。城壁の上から旧市街を見下ろすと、背景には真っ青なアドリア海を従えたオレンジ色の屋根の家々が輝いていた。中世に造られた石造りの城壁に囲まれた旧市街は、左右に細長い路地が延び、きらきらと輝くような白い石畳が美しい。しかし、日中は大型観光バスで次々とやってくるツアーグループが街中に溢れていて、とてものんびりとする雰囲気ではない。のんびりとするのが目当てならが、近くの観光地図にはのっていない町に泊まるのが一番のようである。

ドブロヴニクの旧市街は1979年にユネスコの世界遺産に登録されたが、その後1991年からのクロアチア独立戦争時に、旧ユーゴスラビア連合軍とセルビア政府軍の攻撃によりかなりの被害を受け、一時は住民も減り廃墟と化して「危機にさらされている世界遺産リスト」に載ったが、戦後修復作業が進み、1994年に改めて世界遺産に登録された。

サラエボからドブロヴニクの直行バス(約8時間)に乗り、クロアチアの国境に近づいた頃から、空気と景色がずいぶん変わってきた。今まで雨が続きどんよりとした天気だったのが、急に青空が見え出し、空気も洗濯物があっという間に乾きそうな、ぱりっとしたさわやかさだった。周りの景色もオリーブの木や乾燥した地中海沿岸でよく見た野草に覆われ、岩山の岩の色も太陽の下で白く輝いていて、海に近づいてきたのだなと実感した。

ドブロヴニクのバスターミナルに着くと、おばあさんが主体の客引きが集まっていた。自分の家の部屋を観光客に貸す、プライベート・ルームで生計を立てている人々だ。その中で人の良さそうな笑顔をたたえた、周りと比べるとかなり若い(しかし後で47歳と分かった)男性が目に止まった。手には町の中心のプライベート・ルームと書いたサインを持っている。ウェスにあのおじさん感じが良さそうだよと教えたが、彼がバスを降りるとすごい勢いのおばあさんに捕まってしまった。おばあさんがまくしたてている間、バスから目を付けていた男性は後ろの方で遠慮がちに立っていた。私が彼に質問をして、彼が答えようとすると、怖いおばあさんは彼の事を押しやり、彼に対して怒鳴り出した。おばあさんが邪魔をする中、なんとか彼(イヴォ)の家の話を聞き、旧市街からすぐ近くという事が分かり、怖いおばあさんに付いていくよりは、おばあさんに完全に負けている彼に付いていこうと決めた。

ガイドブックに載っている安宿やバスターミナルに客引きに来ているプライベート・ルームはほとんどが旧市街から数キロ離れた場所にあり、少し不便なのだが、イヴォの家に来てみると、なんと旧市街の城壁から道をはさんでほとんど隣と言って良いほどの、すばらしい場所にあった。また、きちんとした夕飯や朝食を旧市街で食べるとかなり金額がかかるのだが、彼の家では夕飯を60クナ、朝食を25クナで作ってくれる。クロアチアの家庭料理を堪能できて、とても楽しかった。

次どこいこ?

10月10日にフランス・シャストイ(詳しくは以前のページへ:理想の休暇理想の休暇その2)へ戻って、B&Bのお手伝いをする約束をしてあるので、アジアにいた頃からどうやってフランスまで戻るかを長い事迷っていた。最初はモンゴルとシベリア鉄道でアジア・ヨーロッパ大陸を横断しようという話になっていたが、結局は中国・新彊ウィグル自治区からキルギス・ウズベキスタン共和国に入ってしまった。ウズベキスタンからは、飛行機でポーランドへ行き、そこから陸路で南下しようと計画していたのだが、ウズベキスタン出発間際に気が変わり、イスタンブールへ飛んでそこから陸路で北上して、ブルガリア・セルビア・ボスニア・クロアチア・スロベニア・イタリア経由でフランスに入る事にした。クロアチアのドブロヴニクまでは順調に計画通り来たのだが、ここからまたルートが変わりそうだ。

ドブロヴニクのイヴォの家に置いてあった、地球の歩き方のスロベニアの写真を見ていて、あまりスロベニアに行きたいという気がまずなくなってきてしまった。そしてドブロヴニクからイタリアの南にあるバリまでの船が出ている事も知った。地図を見ていたら、バリからはシシリア島やサルディニア島へも行けるし、コルシカ島へ行くという手もある。スロベニアとイタリア経由で陸路で移動するのはあまりにも簡単すぎるかないう気もしてきた。とりあえずドブロヴニクからハヴァー島へ行き、そこからスプリットへ立ち寄って、ドブロヴニクへ戻ってフェリーでイタリアへ行こうという事になった。

フェリーの券売り場で教えてもらった魚料理のレストランの3階は眺めの良い貸しアパート


ドブロヴニクからバスとフェリーとバスを乗りついで、ハヴァー島へ向かうつもりでいたのだが、バスに予定以上の時間がかかり、乗る予定にしていたフェリーがあともう一歩という所で出発してしまった。次のフェリーまで時間があったので、元気をつける為にフェリーの券売り場のお姉さんに薦められた、おいしい魚を出すレストランへ行ってみた。予想以上においしい魚料理を食べながら、雨模様の海を眺めていたら、二人とも島まで行く気がしぼんできて、この静かな村に泊まりたくなってきた。ウェイターをしている息子に、レストランの3階にある貸しアパートを見せてもらった瞬間に気に入ってしまい、ここへ数泊する事にした。

最近読んだPaulo Coelho著のアルケミストという本で、自分に与えられた運命を全うする事と、人生の大切な局面で現れるオーメン(前兆?)を見極める事の大切さ等が書いてあった。ふと考えて見ると私達の旅では、思いがけない所からオーメンが現れて行き先を突然変更する事が、度々あった。最近のケースでは、トルファンで出会った智里にキルギスビザがいらないと教えてもらった件や、カシュガールでキルギスの首都ビシュケクに2ヶ月住んでいたオランダ人に出会った事で、全然行く予定にしてなかったキルギスを訪れ、大好きになってしまった事がある。クロアチアからフランスまでどういうルートを取るかは、私達はまったく決断する事が出来なかったので、ここ数日の旅の経過をみてなんとなく決めようと暗黙の了解が出来ていた。

フェリーに乗り遅れて、小さな港町のドルヴェニクに数泊する事にしたら、貸しアパートとレストランを経営するお父さんから、翌日用事があって近くの町スプリットへ行くので一緒に行くかと誘われた。翌日は疲れていたのでゆっくりするつもりでいたのだが、ただで行けるならがんばろうという事になり、翌日はお父さんの運転でスプリットへ行き、5時間程町をうろうろしたり、フェリースケジュールを確認したり、イタリアやコルシカ島のガイドブックを探しに行った。そしてこの日出会ったオーメンは、シシリー島やサルディニア島ではなくクロアチアからコルシカ島経由で、シャストイへ行けと言っているようだった。後から後から現れるオーメンに私達は素直に従い、ドブロヴニクからバリへ行くのはやめて、スプリットからイタリアのアンコナという港へ行き、そこから電車でリヴォルノというイタリア半島西側にある別の港町へ行き、そこからフェリーでコルシカ島へ向かう事にした。
ドブロヴニクの旧市街は、アドリア海に突き出るようにして四方を高い城壁に囲まれている。観光地化しているとはいえ、あちこちで洗濯物がはためき、地元の人々が買い物袋をかかえて歩いていたりと、生活臭も漂っている。旧市街が一番良く見えるのは、城壁の上からだ。
1991年〜1992年にかけて、セルビアとモンテネグロ勢力によるドブロヴニクは失敗に終わったが、ドブロヴニクの町は多大な被害を受けた。多くの家は屋根を失い、また火事により半壊または全焼した所もある。修復作業により、新しく直された屋根はピカピカのオレンジ色をしている。
そして、戦火を免れたごくわずかの建物は、昔ながらのしぶい色の屋根に覆われている。

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