カンボジア バッタンバン・プノンペン 2002.3.24 - 3.31

プノンペン

シエムリアプからバッタンバンへの長い道のり

シエムリアプへ行ってみて陽気なカンボジア人気質が気に入り、通常の観光ルートであるシエムリアプからプノンペンへ向かうルートをはずれて、カンボジア第2の都市であるバッタンバンに寄り、少し予定より長くカンボジアに滞在する事にした。シエムリアプからバッタンバンへは、スピードボートかトラックを乗り継いで行ける。私達は人づてにトンレサップ湖でボートに乗るのがどんなにすばらしいかを聞き続けていたので、迷わずスピードボートを選んだ。トンレサップ湖とサンケイ川沿いののどかな田園風景を楽しみながら優雅に3時間ほどボートの旅を楽しむ予定であったが、現実はそう甘くなかった。

まず小さな15人乗りのボートで湖まで行き、そこで30人乗り位のスピードボートに乗り換えた。途中湖の真中でエンジンが突然止まってしまって、なかなかスタート出来なかったりのトラブルはあったが、それ以外は順調に進んでいった。出発してから約3時間たった頃、川の真中にあるレストランにボートが停まった。フランスに住むカンボジア人観光客の女性によると、ここからは乾期の為川の水位が低すぎるので、小さいボートに乗り換えなくてはいけないが、ボートが2艘しかないので全員は乗れないという。そこで残された人々はここから車でバッタンバンを目指すという事になった。

私達二人はボートに乗り損ねたので、他の乗れなかった観光客10人位と車まで向かった。車とは荷台にござを敷いたウィンチ付のダンプカーであった。これ位なら今までの旅でもたまにお目にかかる事があるのでさほど驚かない。しかしダンプカーが動き出して、今までとは様子が違うことに気が付いた。この泥道にあまり車は通らないのか、脇の木々の枝が道路にはみ出していて、荷台の私達は木の枝の攻撃を受ける羽目になった。時々荷台のあちこちから「うわーっ」という声がするので、声のした方を見ると耳や顔から血が出ていた。木の攻撃が一休みすると今度はダンプカーがぬかるみにはまり45度の角度に傾いたまま動かなくなってしまった。4人の助手がウィンチのケーブルを木に繋ぎ、ケーブルを巻き戻す力でダンプカーは泥沼から脱出することが出来た。その後何度もぬかるみにはまって、ウィンチを使っての脱出を繰り返し、数キロ進むのに2時間位かかってしまった。途中スイカ畑で休憩して、フランスからカンボジアへ里帰り中の親子のお母さんが全員にスイカをご馳走してくれた。ようやくバッタンバンの町に着いた時にはもう4時近く、シエムリアプを出発してから10時間近くたっていた。

後で途中からボートに乗った人の話だと、2艘のボートのうち小さい方のボートは快調に進み、私達より2時間前にバッタンバンへ着き、大きい方のボートは川の水が少なすぎてあちこちで立ち往生し乗客も降りて押しながら進んだので随分遅く着いたがそれでも私達は30分以上早かったようだ。一番驚いたのは遠回りをして一回乗り換えないといけないトラックが結局一番早く12時半にはバッタンバンに到着していた事だ。しかし今日はとっても冒険的な移動でとっても楽しかった。

私達が乗ったダンプカーは何度もぬかるみにはまり、ウィンチを使って 脱出を繰り返し、数キロ進むのに2時間もかかってしまった。
バッタンバンでの観光名所のひとつであるワット・エクは保存状態が かなり悪く。アンコールワットを見た後ではあまり印象が残らなかった。


プノンペン

プノンペンは治安が悪いという噂を聞いていたので、私達はナイロビのように町を歩くにもピリピリと緊張していなくてはいけないのかと勝手に想像していた。しかし実際に行ってみると、まったく想像とは違いコロニアル様式の建物と伝統的なスタイルの建物が共存する、素敵な街であった。

プノンペンにはポル・ポト時代の刑務所として使われていたトゥールスレン刑務所博物館と、大量虐殺の場となったキリングフィールドがある。1975年から4年間に渡り、ポル・ポト率いるクメールルージュは国民を恐怖の底に陥れた。都市に住む人々は農村への強制移住を強いられ、また教育のある人々とその家族(子供を含む)を中心に、人口の3分の1にあたる200〜300万人がクメールルージュにより殺害された。

もともとは高校だったトゥールスレン刑務所博物館は、ポル・ポト時代には刑務所として使われ、多くの人が拷問を受けそして処刑された。拷問に使われた教室には、足かせの着いたベッドが当時のまま残され、ベットに縛り付けられたまま殺された犠牲者の写真が展示されている。また別の棟には、数部屋に渡り処刑を待つ人々の顔写真が壁一面に貼られている。あどけない子供達、恐怖の色を隠せない大人達、すべてを諦めたかのような老人達の表情は、博物館を訪れてから数週間たって思い起こしても涙が出てしまうほど強烈な印象を残した。

プノンペンから約12キロの所にあるチョウンエク村では、ポル・ポト派により大量虐殺が行われた。最近建てられた慰霊塔には掘り起こされた8000以上の頭蓋骨が祭られており、ガラスごしに年代別に分けられた頭蓋骨が言葉のないメッセージを伝えようとしている。

カンボジアに滞在した短い期間に人間が成し得る2極端の例を見ることが出来た。アンコール遺跡群では、人間の才能がフルに生かされたすばらしい芸術作品が後世の私達に感銘を与える。そして、ポル・ポト派による大量虐殺の様には、人間の一番暗い本能を目のあたりにされられる。いろいろと考えされられる日々であった。
バッタンバンからプノンペンへ向かうトラックで、 私達のラップトップが壊れてしまった。スクリーンのほんの一部しか読むことが出来ず、これからどう やってホームページを続けていくか考えなくてはいけない。
プノンペン郊外の見所を周るのに便利なのがバイク タクシー。ゲストハウスで手配したバイクタクシーの後ろに乗る私。後ろに見えるのはカンボジアの国旗。
キリングフィールドではポルポト派に虐殺された人々の頭蓋骨が、掘り起こされて慰霊塔の中に収められている。
プノンペンの中心にある王宮の一部。

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