ボスニア・ヘルツェゴビナ サラエボ 2002.09.21 - 09.23

魂のある町

ボスニア・ヘルツェゴビナへ入国してすぐに、道路脇に2台戦車が停まっているのが目に入った。戦車の中から迷彩服を着た黒人の兵士が機関銃を道路へ向けて構えていた。サラエボに向かう道路脇の家々の壁には、銃で撃たれた痕が痛々しく残っており、多くの家には窓が完全に取れているのだが、中には半壊した状態の家に住んでいる人々の姿が見えた。しかし多くの家は徐々にだが、壊れた家を直しているようであった。戦争の傷跡は痛々しいほどにはっきりと残っているのであった。現在は2万人に減った和平安定化部隊(SFOR)だが、一時は6万人駐留していた。この部隊が国を去っても、住民同士が殺し合いをしなくなる日が訪れるのはいつのことであろうか。

激動の近代史を歩んできたサラエボだが、戦争の傷跡が深く残る中でも、言葉で形容するのは難しい不思議なエネルギーの溢れる町であった。現地の女性はサラエボの事を「魂のある町」と呼んでいた。戦時下の絶望と恐怖の中から這い上がろうとする住民のやる気が感じられるのかもしれない。また、古い建物は銃の痕があってもとても美しく見える、不思議な魅力があるサラエボであった。

サラエボには目に見えない境界線がある。ムスリム人の住む地域と、セルビア人が住む地域に分かれているのだ。ベオグラードなどセルビア人支配地域から来るバスは、セルビア人が支配するサラエボ郊外の町ルカヴィカのバスターミナルへ到着する。それ以外の地域へはセルビアの町中心にあるバスターミナルから出発する。以前はセルビア人支配下のサラエボ郊外の町からムスリム人地域のサラエボへ入るには町境があり、バスやタクシーを乗り換えなくてはいけなかったようだが、現在は市バス(31E)が二つの町をつないでいる。二つの地域の違いは見た目には、まったく分からなかった。

ムスリム人・セルビア人・クロアチア人

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国に住む、ムスリム人・セルビア人・クロアチア人は最近の戦争で三つ巴の悲惨な戦いをしてきた。しかし、ガイドブック(地球の歩き方・中欧編)によると3つの人種には民族的な違いはなく、信仰する宗教が違うだけであるそうだ。セルビア人はセルビア正教、クロアチア人はカトリック教を信仰し、セルビア語とクロアチア語もほとんど同じで、多少方言がある程度の違いである。そしてムスリム人は、500年にわたったオスマン・トルコの支配時に、セルビア人・クロアチア人がイスラム教に改宗した人々だ。長い間3民族が共存して、異なった民族同士の結婚も普通であった。(現地の人によると、イスラム教の女性はイスラム教を信じる男性としか結婚できないが、イスラム教の男性は無宗教の女性以外ならどの宗教の人とでも結婚出来るそうだ。)現在ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国に住む3民族の割合は、ムスリム人(イスラム教徒)約44%、セルビア人(セルビア正教徒)約31%、クロアチア人(カトリック教徒)約17%である。3年半におよんだ戦争により、ボスニア・ヘルツェゴビナで20万人が犠牲となり、200万人が難民・避難民となった。

分割された町モスタル

クロアチアの国境近くにあるモスタルの町は、ヘルツェゴビナで最大の町であり、ボスニア・ヘルツェゴビナに住むクロアチア人最大の拠点都市である。最近の戦争では、クロアチア人とムスリム人の激しい戦いの場となった。その時の様子は、バスで町を通り過ぎるだけでもうかがい知ることが出来る。建物のほとんどが蜂の巣のような銃撃の痕が残っているのだ。現在は川をはさんで東側がムスリム人側、西側がクロアチア人側支配地域となり、戦争時の心の傷はまだ深く残っているようである。
この橋の上でオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナンド皇太子夫妻をセルビア人青年が暗殺した事がきっかけで、第1次世界大戦が勃発した。近代史では、サラエボは多くの悲劇を目撃してきた。1992年〜1995年の間にはセルビア人勢力に包囲され、1万人以上が犠牲となった。
バシチャルシァ(旧市街の中心にある職人街)は旧トルコ人街とも呼ばれており、町のレストランではケバブやビュレックのようなトルコで見かけた料理を出しており、トルコ・コーヒーを出すカフェが並び、お土産物屋ではトルコ・コーヒーを作る為のポット等の銅製品を売っている。
サラエボの中心は修復が進んでいるが、3年間に渡った戦争の傷跡は国中に残っている。サラエボの郊外のアパートには、痛々しいほど銃の痕が数多く残り、焼け跡が黒い傷を残している。この建物は戦争中ジャーナリストが泊まっていたホリデイ・インの前にある建物。この大通りは戦争中はスナイパー(狙撃兵)通りと呼ばれ、高層ビルに潜んだセルビア人狙撃兵がこの通りで動くものは全て、老人・子供・女性も含めて狙い撃ちにした。
一時は6万人駐留していて、現在は2万人に減った和平安定化部隊(SFOR)が、民族間の紛争が起こらないように監視している。この日は一部のSFORが休暇をとっているようで、スペイン・カナダ・フランス・イタリア・ドイツ・ポーランドの腕章をつけた兵士が、サラエボの旧市街に観光に来ていた。

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